駐車場について

 駐車場の歴史は深い。ほとんど農耕文化が始まったときにまで遡って考える必要がある。農業を知った人類は、土地が食べ物を生み、さらに金に換わることまで短時間で理解してしまい、私有に拘る快感と今に至る不幸が襲ったのである。その起源は畑を耕す手助けの馬や牛をつなぐエリアである。長らく謎のままであった古代長江流域で発見された通称「武又板絵」には、家と思われるカタチの隣、円で囲まれたPに似た文字が記されてあった。それが牛車をとめる場所を表すことがわかったのは20世紀に入ってからであったことは記憶に新しい。

 何故、人は駐車場を家のすぐ横につくりたがるのか。言い直せば何故、家と駐車場はセットなのか。ここには土地を所有する概念以前の問題がある。

 私の友人Kさんのエピソードを紹介しよう。自分はそこに自動車を停めておいた筈だという確たる信念のもと、自分のキーで、共通項は「色が同じだけ」という友人の車のドアキーを開け、さらにエンジンまでかけて奥さんを駅まで迎えに行ったそうだ。果たして駅から乗せて帰る途中に奥さんは言った。「ところであなたの車はどうしたの?」... この例のように人は簡単な誤りを犯す。ここで表したいのは、「銅の車」が「金の車」に取り替える事ができるヒントではなくて、所有物がどんなカタチであれ、その物がどこに保管されているのかが重要だと云うことだ。その誤りは、それが数千年前の板絵に刻まれたことからも、古代でも頻繁に問題になっていたのであろう。

 よって自分のモノは念入りに囲まれた自分の領域に保管することである。

計画について

 そして多くの人は、駐車場には更にカーポートを要求する。その不思議さは、牛や馬が「曲り家」で大切に育てられてた日本の歴史からみれば解消されるだろう。「曲り家」の進化が現代のガレージだ。家族同然の馬を愛でるように、イタリアの馬を愛でたりする。生き物を愛でることが機械に変わったからと云ってこの心情を非難することはできない。 " 見立てる " ことは人間だけが可能な高等な知的遊びであり、和の文化の多くはそれにあると言って良い。最近は「オタク」こそが見立て文化の正当な継承者たちだとの研究もある。

 昔ならば藁が敷いてあったりしたが、流行りはコンクリートで固めることだ。車が汚れないとか、玄関から車に乗るまで靴が汚れないなどあるが、これにはデメリットもある。

 環境への影響だ。雨水が自然に地面に染み込むことができずに、降っただけ全部が道路、下水、川、果ては湖、海に流れ込むので、地上表面の汚濁物質全てを巻き込み、一気に川や湖の汚れがひどくなるのである。降った場所で地面に浸透すれば、そこまで急激に汚れることはない。

 そこでオススメなのが石で舗装をすることだ。それも隙間をあけてタイヤが乗るところだけ。隙間に芝生を植えてもいいが、車の下で太陽があたらないところは間もなく枯れるだろう。放っておけば雑草が生えてきてくれる。日陰に強いものが勝手に覆ってくれるので心配するほどでもない。

 砕石はやめておいたほうがいい。植物を楽しもうとしたときに始末に困る。小さなガーデニングシャベルでは手に負えない。かわいい苗を植えるにも苦労するし、種など撒いても無駄だ。手でやっと抱えられるぐらい大きめの石で舗装施工しよう。石の間は土のままで可能性を残そう。少々ガタつくこともあるが、コンクリートじゃなく、石と土の関係だと、良く見なおせば気にならない筈だ。

 何よりも経年変化が味わい深いのは石のような自然物だ。それは余所の家の20年経った駐車場がどうなったかをみれば分かり易い。つくりたての人工物はあからさまに時間の変化を表面に浮かべる。

 するとカーポートもアルミ製ではない選択も出てくるであろう。

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