庭の陰影について 1

 「明るい庭が欲しい。」とは誰もが口にする。わからないでもない。おそらく住宅メーカーなどの広告写真に多い、ビッカビカの太陽光の下で遊ぶ家族写真のイメージにおかされている。それか遠くアメリカ西海岸の住宅風景が印象に残っているのだろう。もともと住宅を若いうちに取得させ、そのために一生働き、どんどん経済を活性化させるというシステムを発明したのはアメリカだ。カタチまで真似してどうする。

 物事には必ず裏と表があるように、どこにでも日向があれば日陰があるのが道理だ。たしかに全面を芝生にしたら庭は明るい。春から夏は一面、蛍光色のような緑色だ。苅り揃えた芝生には不思議と清潔感まで漂い出す。それは見事にあなたの家の風景を異国のどこかのように魅せてくれる。しかしいったいどこなんだ?良く見ると国籍不明でもあるぞ。昭和の経済成長と蛍光灯の普及率はぴったり重なるそうだ。確かにどこもかしこも明るくなったが、明る過ぎる風景はどこか悲しい。そのイメージしたところがペラッペラの薄さだったこともあって、つくった風景も極薄になっている。

 日本の美術文化が深い陰影のなかで育まれたことは、谷崎が著した。そのことは書かない。文化住宅なるものは、そもそも蛍光灯の灯りで暮らすことを考えてつくられたモノだ。古くからの日本の軒の深い住宅に蛍光灯など当てはまるはずもない。昼間でも薄暗いその室内は、夜を待たずとも充分に陰影が存在した。昼間の戸外が明るい分、よけいに暗さが際だった。

 光と陰のコントラストは思わぬ美しさで目を喜ばす。もちろんそれを楽しむ素養があなたにあればだ。「こんな暗いトコ、やっ。」だったら野球場にでも走れ。

庭の陰影について

 全面明るいと広い空間も狭く感じてしまうことがある。適度な陰影、特に光と陰が交互に繰り返す空間は複雑だ。その複雑さは、そこで見ている限りは認知不可能な部分がほとんどで、その不可能な部分は想像で補うしかない。想像こそが広がりをもたらす。手前に背丈程の樹木があるのもコントラストがついて、室内からは良い景色にみえるだろう。このあたりは庭造りの常道からは外れることだ。どうしても大名庭園が欲しいというリクエストには別途相談に乗ろう。

 21世紀の日本で、認知不可能な部分に危険な動物が潜む危険はほとんどない。結局、知らない人が隠れていたりするのが気持ち悪いのだが、幸か不幸かそれほど大きな茂みをつくることはできない。その部分で心配すべきはゴミが溜まりやすいことだ。しかし「生物多様性」には、小動物の隠れ家をつくることはとても大事なことだ。精神衛生には落ち着かないが、落ち葉や枯れ枝が溜まっていることは悪いことではない。

 カーテンで外からの視線を遮るのが常套手段だが、(窓を開けないのは論外)大きめの樹木で遮ると、そのほうが気持ちが良いことに気づくだろう。視線どころか太陽の熱まで遮り、わざと土のままで残した庭に打ち水でもすれば、町中でも「木陰からの風」を少々味わえる。広葉樹にしておけば、冬は葉っぱを落としてくれるので、寒い時期は陽光を味わえる。

 芝生だけでは生き物が少なすぎる。鉢植えに少々花があっても、チョウチョはチラと立ち寄り、通り過ぎて行くだけだ。

 日陰があることは、ダンチに植物の種も増やすことができる。林床に生えるようなものたちだ。植物が増えれば、また小動物も増える、と良いこと尽くめ。

 一般の造園屋はすすめないがサクラもいいだろう。花が終わったサクラに誰も見向きもしないが、濃い影をつくるため、夏は木陰が楽しめることにあまり気づかない。サクラにつく毛虫はモンクロシャチホコが多い。これが全くの無害であることを知る人も少ない。

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